大陸浪人列伝

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玄洋社とは何だったのか

玄洋社についての評価は、評価する者の思想傾向に依存する。そもそも歴史や社会科学の多くは、このような主観性を排除できないが、特に好き嫌いがはっきりするテーマではある。

玄洋社は、1881年(明治14年)、平岡浩太郎を長として旧福岡藩士らが中心となり創立された政治結社である。創立には、杉山茂丸、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父)、月成功太郎、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが参加した。

その政治信条は、特に極端なものではない。その内容は、「欧米諸国の植民地主義による世界の人々の収奪・圧政を排撃し、対抗するためには、日本が国権を強化し、欧米列強に対抗できるような国力を手に入れることだ」というものである。それを実現するためには、アジア各国が独立できるように支援し、それらの国々との同盟し、西欧列強と対抗することが志向された。これは「大アジア主義として構想された。 この大アジア主義は明治から敗戦までの日本、のみならずアジア諸国には広く広まり、特に日本では政財界に多大な思想的影響力を持っていたとされる。 フラットな視点からこの玄洋社の思想をみれば、実に納得できる、素晴らしい思想である。事実として、当時の世界は西欧列強による収奪と圧政、人権抑圧に苦しんでいた。そこから解放しようと考えるのは、非西欧である日本人が考えても当たり前であるし、理想的なものだろう。

ただ、この大アジア主義が「キチガイじみた考え」として排斥されるようになるのは日本の敗戦がきっかけだった。これは容易に想像できる結末で、西欧列強が日本を敗北させ、西欧列強に対抗する「有色人種」がいなくなった。言い換えると、世界の有色人種はすべて収奪の対象となったということである。

そのような植民地主義思想に反旗を翻していた玄洋社は、まず排斥・弾圧する必要がある。白人であれば、当たり前のロジックで、1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散を命令した。

玄洋社は特に極端な主張をしていたわけではなく、西欧列強に不都合な真実を批判していただけだったといえよう。それが玄洋社に対する戦後の評価に影響を与えたのである。